最近これらについてよく考える。
今のところ、自分が欲しいのは「日本以外でも仕事ができる、地球のどこででも生きていける」自信が、もっとも欲しいものの一つだ。
金銭的な条件、資格的な条件(学位とか)、健康な体、そしてコミュニケーション(語学)。
金銭と資格は時間かければなんとかなりそうなので、最終的にはコミュニケーションがボトルネックになっていると自覚している。
英語の勉強も細々と継続していて、とりあえずどこに行ってもサバイバルはできる自信はついた。
しかしながら、日本語と同様のコミュニケーションを展開することはできない。
よっぽどラポールの構築に失敗した状況でない限り、日本語でなら議論でも交渉でもそれなりに目的を達成する自信があるが、外国語でこれはできない。
要求水準が高いので、じゃあ少しレベルを下げて・・・と考えていくと、何なら可能なのか、何なら自信があるのか。
結局のところ、「何か実際にやってみた」ことでしか、自信は持てないのではないか(自信の意味を考えれば自明だがなかなか分からなかった)、と最近思い始めている。
正月明けにGUAMに行ってきた。ほとんどの状況で日本語が使える南国の島だ。
マクドナルドは全部日本語で注文できた。こちらは英語で話しかけたというのに。
トロリーバスもドライバーは片言の日本語を話す。
意識して英語を話した状況で記憶しているのは、イミグレとレストランくらい。
トニーローマではメニューの内容についてアレコレ確認したりしてたので、ここで得た自信をまとめると;
「レストランでチャモロ人ウェイターにメニュー内容について質問する」ことができる
という自信でしかない。
原則としては何らかの成功した実績が、おそらく自信の上限なのではないだろうか。
そして、過去に類似の行為の累積があればそれらによる「度胸」の上乗せで、この例ならばチャモロ人のところがアメリカ人でも香港人でもOKだろうし、レストランでなくても大丈夫だろうし、メニュー以外の内容でも確認可能だろう。
成功体験を効果的に得ることが、能力開発や夢の実現に対して必要なことなのではないかという仮説を折りに触れて検証していきたい。
こうしてタイプしてみると至極当たり前のことを書いているような気がするが、、、。
2009/01/21
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